最近はタブレットを少し遠ざけてみてます。
電車など乗り物に乗る時は風景をみることが多くなってきました。
私も以前よく電車ではタブレットを見てました。
旅行の情報収集、ネットショップ、メッセージの返信などなど。自分の興味あるものをどんどん出してくれるタブレットをいじっていると電車に乗っている時間も短く感じます。
ただ不思議と、何見てたっけ??と自分に情報が残らないことも沢山あるんですよね。
改めて電車の中の風景を見てみると、液晶画面を見ている方がとても多いです。
空き時間を埋めてくれるスマートフォンの存在は大変大きいですし、便利で時間の有効活用感も高まりました。
ただ、スマホの役割が多くなりすぎて、道具に人間が使われるようになってきていないか?ということ。
スマホがなくなっても大丈夫なように準備するのもアリかなとも思っています。
例えば震災で壊れたら、電源が切れたら、電気が途絶えたら。
ただの金属の固まり。その時、大パニックではなく落ち着けるようにしておくのは大事なのかな。と。
そして思ったのは、スマホの画面に集中しすぎて家の中の状態に近い方が多いように感じたこと。大勢の公共の中にいることを忘れてしまう状態は実はとても無防備に感じました。
例えば膝上のスカートを履いていながら脚が大胆に開いている。とか。
人同士の距離感にも気が回らなくなってきているようにも感じます。
画面に集中するあまり後ろの人の気配や動作に気づかないような。
人の気配の存在にもう気付けなくなってるような。
自分の後ろや身体ってもともと忘れやすいのですが、スマホ普及でさらにそれが強まってるように感じます。もう目の前の風景ですら見えなくなってきているのかもしれません。
見ているのは手元の画面。音も今いる環境の音ではなく自分の聴きたいもの。触れる情報の数は膨大なのに、囲まれるものは自分の選んだ最小限のものだけ。
自分の環境が広くなっているのか、狭くなっているのか、不思議な感じです。
気づきが少なくなるなどの鈍さが増える傾向と利便性が高まり待つことができなくなる傾向のアンバランスさがトラブル増加に関係しているように感じます。
これから機械の存在がさらに増えていくなかで、人間のありかた、豊かな人間性とは何かを自分なりに持って大事にしていけたらなぁ。と。
便利な道具でこれからまったく使わないということはできない。
し、使えた方が断トツ良いのです。
でも使い方や道具との付き合い方がこれから更にスマートになってくるんじゃないでしょうか。うんざりしている人も多いような。
電車の窓一面に早々に流れていく春の雲を眺めながら。